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2013.01.29 Tuesday

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職人の世界

2013.01.29 Tuesday 11:55
私が8歳の時に、料理の修行へ旅立った兄。
2年間学校へ行き、その後は料亭に就職。ひたすら修行に邁進したのだろうと思う。
実家の後を継ぐと言い、帰ってくるまでの十数年間。
年に2日くらい帰って来るだけだった。
だからこそ、中学入学までの記憶がほぼ皆無な私にとって、兄と一緒に生活した記憶はない。


兄が修行の場を変えて、ちょっと有名な料亭で働き始めたことは知っていた。
ただ、実家に帰ってくれば当然「おふくろの味」を求めているわけで、
兄が手料理を振る舞ってくれることは滅多になかった。
一体どんな料理を作る料理人なのか。
どんな所で働いているのか。
厨房に立つ兄の姿なんて、一切想像もつかなかった。


兄弟でありながら、少しばかり遠い存在だった兄。
口数も少ないから、何を考えているのかもよく分からない。
けれど、私が夏に帰国し、ちゃんと記憶が残る状況において一緒に生活している今、
兄の努力に頭が上がらない毎日が続いている。







兄が働いていた料亭とは、比較にならないほどの安さで料理を提供しなければならない環境。
当然、材料にかけられる費用も違う。
こんな山奥じゃ、手に入る材料も違う。
そんな環境においても、私達家族には想像もつかないような所から材料を取り寄せたり、
休みの日に出向いたりして、与えられた金額の中で、最高のサービスを提供できるよう、
兄なりにベストを尽くしているのだと、最近気づいた。


厨房に立つ姿も、普段のぐ〜たら姿からは考えられないくらい、ビシッとしている。
衛生面への気遣いも、修業先で徹底的に仕込まれたものなのだろう。
それに、「うま味」への思いの強さ。
“銀色の大きい鍋には、一体何が入っているのだろう?”と覗いてみると、
そこには黄金色に輝く出汁がとってある。
出汁に使う材料は、厳選したものを使っているらしい。それ相応の値段もする。
「出汁はね、和食の命だよ。」と、8歳の女の子に話しかけているかのような声で、私に言う兄。
“いつまでも子どもだと思って・・・!気持ち悪い!”と私は怒っているけれど、
そんなふざけた会話を通して、兄の料理人としてのポリシーも、実は垣間見えるのだと気づいた。






私は配膳する係なので、お客さんと会話する機会も多い。
料理をお出しすると、最近は「何これ?すごい!民宿の料理じゃないよ!」と驚いてくださる方が多い。
それを聞くと、何もしていない私でも何だか嬉しくなるし、もっと喜んでもらいたいと思う。
お客様からのメッセージ欄でも、“お料理を楽しみに来ました”という一言が、本当に増えた。
それは、間違いなく兄の努力の賜物。
けれど、民宿の晩ご飯では、兄の本当に表現したい世界を完璧に造り上げるのは、難しいと思う。


ただ、時折懐石料理のようなものをお出しする機会が訪れる。
その時が近づくにつれ、兄の動きも目つきも表情も、一気に変わってくる。
普段は口出しできる母も、この時ばかりは、一切何も言えない。
兄には、兄の表現したい世界がある。
前日の晩から、ひたすら厨房に立ち続ける兄。
お品書きを見ても、私なんかには、形も味すらも想像できない。
それが・・・午後6時が近づくにつれて、徐々に見えてくる。
秋には、器いっぱいに日本の秋が表現されていて、一種の芸術作品かと思えてしまう。
冬には、雪のある景色が表現され、心も体も温まるような料理が出来上がる。
お正月には、希望に満ちた新年の幕開けが、テーブルいっぱいに表現されている。



この無口でぐ〜たらな兄の頭の中には、一体どんな世界が広がっているのだろう?
私がこの山奥で、呑気に暮らしていた時にも、兄は見知らぬ土地で、ひたすら修行を続けていた。
「最近になってようやく、“俺はこの道で生きていくんだな”と、確信が持てたんだよ。」と兄が言った。






料理のことしか考えてなくて、お客さんがいないとぐ〜たらして、母に怒られてばっかりで・・・
頼りがいのない男だ!と、兄弟全員から冗談交じりにイジられる長男だけれども。
兄がこれまで重ねて来た努力と、厨房に立ち創りあげる世界を、家族全員が尊敬している。
我が家の立派な、職人さんです。
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Maastricht

2012.07.31 Tuesday 22:15
15歳夏。
英語のスピーチコンテストの原稿を考えていた時にひらめいた、「日本語教師」という目標。
高校に入ってから、いくつも書かされた志望校調査の欄には、○○大学日本語学科という文字が連なっていた。


17歳春。
新しく副担任になった先生が、京都の大学の日本語学科出身だと聞く。
「日本語教師になりたいなら、私の母校もいいかもね。だって・・・・・・・・!!」
この時、初めてオランダの大学での1年間の教育実習プログラムを知った私。
それからというもの、海外の大学で1年間教育実習ができる日本語学科に絞ることにした。


紆余曲折を経ての、18歳冬。
京都外国語大学日本語学科進学を決める。
あの、ピアノの部屋で、一人で真剣に考えた末に出した結論。
18歳冬の、私の決意。








京都へ行って、留学試験に合格して、絶対私はオランダへ行く。







18歳春。
京都へ行く。そこで初めて出逢った、かけがえのない「じゃぱ語」の先生方、そして友だち。
入学当初から、オランダ留学のことしか頭になかった私。
第二外国語は、需要のある中国語やスペイン語ではなく、オランダ語。
そして、最高の出会い。
ベルギーに住んだ経験があり、共にオランダ留学を目指そうと約束した友だち。
結局、一緒に留学はできなかったものの、彼女は本当に私を支えてくれた。

そして、日本語教師を共に志す仲間との出会い。

衝撃的だったのは、やはり「実践日本語教育」という授業。
クラスメイト相手に、日本語の授業をするという内容。
初めて自分が授業をする番になり、それはそれはグループの友だちと意見を出し合って、遅くまで準備に励んだ。
前日、教案を出しに先生の研究室へ行って、言われた一言:「え?こんなことするの?まあでも、もう前日だから、変更きかないし、しょーがない。これでやれば?」
その日の夜は、涙がとまらなかった。
京都まで出て来て、オランダのことずっと夢見て来て、だけど私は1回生の最初の段階で躓いたのか・・・と思うと、悔しさと情けなさと絶望感とで、涙が止まらなかった。

次の日、教壇に立ち、20分の授業をした。
『みんなの日本語 第4課』 時刻の読み方。
すごろく形式で、学習者にどんどん時刻を言わせるという方法。
その後、先生からのコメントがあるはず・・・目も合わせられなかった・・・なんで先生、一言も話さないんだろう・・・何も言えないくらい、ひどい内容だったってことか・・・・・
落ち込む私が、ふと顔を上げると・・・・・







先生が泣いていた。







「ありがとう」と言ってくれた。
「学生さんが、こんなに一生懸命準備に取り組んでくれて・・・私は嬉しいです」と。
何が起きたのか、よく分からなかった。拍手だけが聞こえて来た。

それからは、より一層授業に真剣に取り組んだ。



20歳秋。
オランダ派遣留学生選抜試験。
英語の試験と、15分間の模擬授業。「〜ている導入」。なんていうテーマだ・・・!
2人の教授が学習者役になり、授業形式で行われる。
私が何を言っても、1人の先生は「ワカリマセン」しか言わなかった。
模擬授業の後、根本的な文法の間違いも指摘された。



オワッタ・・・・・・オランダ行ケナイ・・・・・・・・・



それしか頭に浮かんで来なかった。
教室を笑顔で退出後、目の前にあったソファに座り、泣き続けた。
一緒に試験を受けた友だちとスタバへ行き、泣き続けた。
そして、家に帰り、一晩中泣き続けた。



20歳冬。
オランダ派遣留学生選抜試験合格者発表。そこに、私の学籍番号があった。








あれから、5年。
がむしゃらに走り続けた。授業について、学生について、それだけに集中していた5年間。
日本語教師というものは、もう私にとって目標ではない。
「生き方」になったのだと思う。

多くの出会い。
多くの苦悩。
多くの葛藤。
多くの涙。
多くの喜び。
驚くほど多くのことを経験した、5年間。



1年で終わる予定だったオランダ生活が、まさか5年になるなんて、思ってもいなかった。
帰国直前、「必ず呼びますからね!」と言い、本当に私に仕事を与えてくれた先生方・学生のみんな。
忙しさで頭がいっぱいになり、焦って、心の余裕がなかった私を、いつも見放さずにいてくれた友だち。
ぽーんと送り出してくれた、家族。
そして、私の将来を応援してくれる同僚の先生方。

こんな素晴らしい方々に出逢い、多くの経験をさせていただけたことに、心から感謝しています。
恩返しできるよう、これからも精一杯走り続けようと心に誓いました。








マーストリヒトに来ることを決意したあの日から、8年。
あづさは、旅立ちます。
大きくなって、帰って来られるように。


ありがとう、マーストリヒト。Dankjewel, Maastricht.
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おばあちゃん。

2012.04.02 Monday 11:29
3つ上のお兄ちゃんは、おばあちゃん子だった。
お兄ちゃんが高校生で、私が中学生だった頃、
お兄ちゃんは、いつもおばあちゃんと話していた。


おばあちゃんは、いつも私とお兄ちゃんの服を洗ってくれた。
お兄ちゃんは野球部だったから、
泥だらけのユニフォームを持って帰って来る。
さすがに、それはおばあちゃんのチカラじゃ
やっつけられない位、強力な汚れだったので、
本人とお母さんが、毎日せっせと洗っていた。
おばあちゃんはというと、2・3日の間に出る洗濯物はごく僅か。
だけど、やっぱり洗濯機で洗わないといけないので、
どうせ回すなら、みんなの分も一緒に洗おうと、
いつも声をかけてくれていた。


そういえば………
お兄ちゃんが大切にしていた服だか、何だったか、
もう今となっては思い出せないけれど、
おばあちゃんが、間違ってそれを漂白剤に付けてしまい、
本気で喧嘩してたのを覚えている。


「お年寄り相手に、そんな本気で怒って…なんてヤツだ!」
当時の私は、そう思っていたけれど。
逆に、お年寄り扱いされてないということが、
おばあちゃんの刺激になっていたのかもしれない。




おばあちゃんは、とてもハイカラな人。
大好物は、梅酒と6pチーズと、焼きプリン大。
2週間に一度、近所に住むおばと一緒に、
おばあちゃんは、買い物に出掛ける。
そして、帰って来ると、うれしそうな顔で、
「あづこさん。冷蔵庫のプリン、食べていいよ。」と言ってくれる。





お兄ちゃんが高校を卒業し、上京が決まったとき。
ちょっといいか、と呼び出され、一言だけ言われた。




「あづ、毎日朝晩、おばあちゃんの部屋へ行って、話をしろよ。」




朝、登校前に挨拶。
帰宅後、すぐに挨拶。
休みの日は、一緒にテレビを見る。
背中に薬を塗る。
バスで帰らなきゃ行けない日は、
300m先にある、バス停まで迎えに来てくれた。

乾燥に弱くなり、風邪をひきやすい体になったおばあちゃん。
ちょっと弱ってくると、すぐに、
「おばあちゃんも、いつまで生きられるか分からないから」
とつぶやいていた。

いつしか、毎朝毎晩、おばあちゃんの寝ている姿を見るのが日課になった。
ちゃんと息をしているかどうか。
腹式呼吸して、お腹が上下しているかどうか。
苦しそうじゃないかどうか。
寝息を聞いて、安心する毎日。
咳のひどい音がすると、それとなく部屋に入り、
しばらく一緒にいたりしていた。




なのにどうして、言えなかったんだろう。
たった一言、1秒くらいで言えるのに。

「ありがとう」の一言。

一緒に生活した17年半の間に、私はどのくらい言えただろう。
そして、さいごに「ありがとう」と言えたのは、いつだったんだろう。
さいごに、一体私は、おばあちゃんと何を話したんだろう。


あまりにも突然で、
いつもの通り、買い物に行くと聞いていたから…

ちゃんと挨拶してから、部活に行ったのかな?
前の日の晩、何を話したんだろう。
おやすみの挨拶とか、したのかな。
私の将来の話とか、したことあったかな。
おばあちゃん、もっといろいろ話したかっただろうな。
私、何してたんだろう・・・・・・




何年経っても、消えない想い。




どうしてあの時、もっと一緒にいなかったんだろう。
どうしてあの時、もっと楽しませてあげられなかったんだろう。
どうしてあの時、もっと素直になれなかったんだろう。
どうしてあの時、「私が買ってくるから!」と強く言えなかったんだろう。
どうしてあの時、あんな事が起こってしまったんだろう。
どうしてあの時、もっと早くメールをチェックしなかったんだろう。




いくら考えても、変わらない。
だけど、これからもずっと、考えていく。





おばあちゃんに、ちゃんと言えたかどうかも分からない、
「ありがとう」の言葉。
伝えなきゃ、伝わらない。
言われなきゃ、分からない。
周りの人への感謝は、言葉と態度に表さないといけない。
そう強く感じ、行動に移せるようになったことが、
10代の私との違いかな。





おばあちゃん、あづも・・・ちょっとは大きくなったかな。





人は、いつ いなくなってしまうか、本当に分からない。
その時は、本当に突然、何の前触れもなくやって来るかもしれない。
周りの人の心に与える影響は、
驚くほど大きく、想像もつかないほど、長く続く。

いなくなったなんて、信じられない人もいる。
いや、もしかしたら、みんな信じてないかもしれない。
心の中で生きているから・・・
とか、そういう理由ではなく、
本当に近くで、すぐ近くで見てくれている気がしてならない。





今、この時。
一緒に過ごせている人と、
この先、いつまで一緒にいられるかなんて、誰にも分からない。

その一瞬一瞬を、かけがえのない時間を共有できている喜びを、
ちゃんと伝えよう。





おばあちゃん。
私は、おばあちゃんの孫で、本当によかったよ。
ありがとね、おばあちゃん。
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ふるさと

2011.09.18 Sunday 13:21
 ここ、オランダで正式に働き始めて、2年が経った。
何とも早い2年間だった。

日本語教育会の先駆者が揃った、外大での毎日。
そんな恵まれた環境から、ぽ〜んっ!と一人で飛び出して来た自分。
もちろんここにも、心優しく見守ってくださる方々は多い。
でも、外大時代に先生や友達にしていたような、教育関連の相談事ができない環境。
他の人の教案・授業を見て、お互いに意見を出し合って、
切磋琢磨しながらお互いにスキルを磨いて行く、あの環境が懐かしかった。

でも、環境のせいにはしたくない。
ここに呼んでいただいたからには、ここでしかできないことをやる。
自分で考え、自問自答し、何度も何度も書き換えて、実行に移す。
正解だったこともあるし、間違いだったことも数えきれないほど多い。
「現場で教壇に立つより、教材作ってる方が、自分には向いてるな〜」
と、何度も、いやいや、ほぼ毎回思ってる。
それでも次の授業が始まる。かわいい学生が待っている。
「あづさ先生!!」と言って、笑顔を向けて来てくれる。
うん。こりゃ、やるっきゃねーっぺさ。



強くならなきゃ。



元々かなり泣き虫な性格。ちっちゃい頃から、よく泣いてた。泣き真似してただけで、本当に泣いてしまうほど、涙腺ゆるゆる。
そーいえば、働き始めてから泣いたの、1回だけだな。



強くなろう。もっともっと、強くなろう。



強さを得ようとして、私が失ってしまったのは、素直な心。
大学時代、友達がよく褒めてくれていた、素直に喜べる心。
2年間、強くなろうとした結果、強さの勘違いをしていたのだと、気づいた。


夏休み。久々の帰郷。
心の底から、思う存分のんびりしてみた。
うれしいことを「うれしい」と、楽しいことを「楽しい」と、言葉にしてみることにした。
すると、毎日がとてもとても楽しくて、穏やかな時間が流れるようになった。
楽しい。どうしよう。楽しすぎる!!
夏休みの終わりが近づくにつれて、ふと不安になった。

「はて・・・私は果たして、あの強くならなきゃ生活に戻れるのだろうか・・・?」

本気で悩んだ。正直、日本に残りたいという気持ちの方が勝っていた。
「こんなんで、授業できるのか・・・?失礼じゃないか・・・・??」
どうしよう。



出発前日、父と母と一緒にドライブに行った。
すると母が、「でもさ、働くっていいことだね!あづを見て思ったよ。」と言った。
母が、私が働くことを誇らしげに語ってくれている・・・!!
そして父も、「あづが向こうでがんばってるって思うと、お父さんもがんばろうって思うなー。」と・・・。
東京へ向かう新幹線の中で、初めて泣いた。ぼろぼろ泣いた。



ふるさとで、応援してくれている人がいる。
ふるさとがあって、ふるさとがあの町で、本当によかった。
きっとこれからも、がんばれる。




『志をはたして いつの日にか 帰らん』




−東日本大震災チャリティーコンサート 第三部 『ふるさと』を聴いて思ったこと−
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時代。

2011.07.31 Sunday 16:00
 ソウル近郊で大雨をもたらした雨雲は、そのまま流れに流れ、いつの間にか日本列島にやって来た。
雨を溜め込んだ雨雲が向かった先は・・・
こともあろうに、震災・原発・余震に揺れる、福島県付近。
「おいおい・・・また福島?! なぜ・・・」と思った人も多いはず。

新潟と福島の境に停滞していた雨雲は、記録的な大雨を降らした。
2つの県境の真下にある我が町も例外ではなく、金曜の晩から今朝にかけて、激しい雨が降り続いていた。
お山が抱えきれなくなり、行き場を失った雨水は、沢という沢を拡大しながら、下山してきた。
大木というオマケ付きで。


土砂崩れ



貯水量が減り、関係者をちょっぴりドキドキさせていたダムも、
予想外の大雨のごほうびに驚いたようで、満腹になり、とうとう許容量を超えてしまった。
結果、放流せざるを得なくなったのである。
(たぶんね。理由はよく知らないんさね。)

放流



あちこちから茶色い水が溢れ、日本一の流域面積を誇る利根川は、
千(せん)欲しさに偽金を作り、ご飯を根こそぎ飲み込み、挙げ句の果てに人間まで飲み込んでしまった『カオナシ』の如く、膨れ上がっていったのである。
真っ茶色の川というものは、恐ろしいものである。
夜は、川の水の音が凄まじすぎて、恐ろしかった。


我が家の川向こうから奥は、朝早く通行止めになり、朝8時のNHKニュースで
「みなかみ町で、○○世帯が孤立状態にあります。」と報道されたほどである。
父と母の電話は鳴りっぱなし。
メディアの報道の速さと、
『みなかみ町』という、ちょっとばかり具体性に欠ける表現のおかげで、親戚のみなさんや古くからのお客さんから連絡が来たのである。
でも、ありがたかった。
みんな、水上のことを思ってくれていたんだ。
幸い、特に犠牲者が出たとか、大変な事態にはなっていないようなので、一安心。




それでも、やはりこの大雨が飲み込んでいったものは大きかった。



夏は、温泉はもちろんだが、やはりラフティングやカヌー、最近ではキャニオニングなどが盛んなみなかみ町。
夏休みがスタートした今、大学生や家族連れのお客さんが、
早くから計画し、予約を入れ、楽しみにこの町へ来てくださっていた。
ところがどっこい!
この大雨で、川になんて近寄れない始末。
川を一目見ただけで、残念がってたお客さんも「これは・・・中止ですわな。」と納得のご様子。

だが、翌日もキャンセルということになり、さすがに「中止!」の一報を朝耳にしたときは、「えぇ〜・・・せっかく来たのに・・・」という声が聞こえた。



こりゃ、いかん!


私はその時、いてもたってもいられなかった。
大好きな水上に来てくれたお客さん。
このまま、何もせずに帰宅すれば、みなかみのイメージが・・・どうなることか分からない。
そんなことは、させられない!


そして思いついたのが、twitterでの情報収集。
町のアウトドア関連の会社は、こういうことに非常に長けていて、常に最新のホットなニュースをtwitterに載せて、お茶の間に届けてくれている。
早速、自分作の名付けて「山んちゅリスト」をあけてみると、驚いたことに、カヌーは場所を変えて実施するとのこと。しかも空席あり!
キタ、コレーーーーーー!!!ですよ。



昔だったら、「残念でした。さようなら。またのお越しをお待ちしております。」チャンチャン!で終わっていたであろう、今回の一件。
お茶の間で、ただ座ってPCの画面見ていただけだったのだが・・・
こんな私でも、お客さんの滞在のお役に立てたのであれば、うれしい限りです。
何よりも、twitterで情報発信をしてくださっている町の方々に、大感謝♬♪



あぁ〜あ!オラもカヌーしてぇな。
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我思う、故に我有り①

2011.07.29 Friday 16:16
 日本語が下手になった。

学生時代、毎週のようにレポートを書いていた頃、
芸術的な文章を書こうと、色々な言い回しを試していた。
提出する前に、自分で読み返してみて、
「あら・・・もう一回読もうっと♥」と思えたら、提出できるというサイン。

そしてオランダでの教師生活が始まった。

あれから3年以上が過ぎた。
オランダで私が見る活字と言えば、初級日本語の教科書+学生の作文。
教案作り・教材作りに追われる毎日。
既習語彙・既習文型が限られている初級の学習者たちを目の前に、
媒介語を一切使わずに、どれだけ説明できるかが勝負。腕の見せ所。


ふと、教室を離れてみる。そして、日本人の子と会話をしてみる。
そして毎回気づかされるのは・・・自らの日本語力の低下。
うまく表現できない。
言葉が出てこない。
漢字が出てこない。
慣用句が出てこない。
曖昧表現が増えていく。
もどかしい・・・・・。


教育実習に来るインターンシップ生にも共感してもらえる、このテーマ。
みんなクチを揃えて言うのが、「だって、毎日初級日本語しか見てないもん!」という理由だ。



しかし、私は今日、ふと思った。



初級日本語の教師だからじゃない。
オランダで生活しているからじゃない。
自分が、活字に触れる努力をしていないから・・・・・なのであります!!


あの環境でも、自分にできることはあるはずだ。
論文を読む。
日記を書く。
漢字テストをする。
日本人と会話する時、自分の話す日本語に注意しながら話す。




学部生のときが懐かしい。
耳からアンテナを張り巡らせ、日本語の面白さをキャッチしようと必死だった。
これから先、どんな道へ進もうとも、
このアンテナだけは片付けないでおこう。


我思う、故に我有り。第一弾。
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TOKYO

2011.07.28 Thursday 12:01
 " Take time to deliberate, but when the time for action has arrived, stop thinking and go in. "  - Napoleon Bonaparte
( 前準備は時間をかけて考え、実行に移すときは行動に徹しろ。深く考えるときは時間をかけろ。しかし、戦いが始まったら考えることをやめ、戦え。)


2泊3日の東京滞在が終わった。
短くも充実していた3日間。
東京へ行って気づいたこと。


① おともだち。
② 笑いの効用。
③ 実行力。


一歩踏み出してみるもんですな。いやはや。





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3.11

2011.04.17 Sunday 22:00
 2011年3月11日。東日本大地震発生。

至って普通の、いつもと変わらない朝だった。
アムスの学生の家にいた私は、
前日のConcertgebouw orchestraの余韻に浸ったまま、9時過ぎまで寝ていた。
起きてすぐ、真っ青な顔してtwitterを見ていた学生が、
不安そうな声で、「先生・・・日本に地震が来ました!」と教えてくれた。
第一報を聞きつけた日本人の中にも、きっと同じことを思った人がいると思うが・・・
「日本で地震ねー。ま、いつも地震あるから、大丈夫でしょ!」
この時はまだ、それくらいにしか思っていなかった。
しかしその考えは、BBCの津波映像を見た瞬間に、間違いだと気づいた。




ありえない・・・・・ 日本じゃない・・・・・ 私、こんな地震、知らない・・・・・




私は、日本が大好きだ。
日本を離れ、オランダで生活するようになってから、気づいた。強く感じた。
私は、私の母国・日本が大好きなんだ・・・と。

だけど私は、帰れない。帰るわけにはいかない。まだ、帰れない。
だけど何もしないなんて、できない。
ここオランダで、日本人だからこそできることをしよう。
今こそ、日本のために、私を育ててくれた日本のために動くべきときなんだ。



そんな思いを持った人が集まり、募金活動をすることになった。
驚いたのは、主催者が日本人じゃなかったということ。
オランダ人・中国人・ポーランド人・フィンランド人・ドイツ人・・・・・
正直、驚いた。
日本の為に、日本に行ったことのない人が、一生懸命動いてくれた。
ありがとう。本当に・・・ありがとう。

週末2日間、道行く人に声をかけ、寄付を募った。
「家族は大丈夫なの?」「いい活動だね!」「応援してるよ」「日本、がんばれ!」
多くの人が、あたたかい言葉をくれ、何とも言えない、温かい気持ちになった。




そのイベントが終わった後、いよいよ日本人主催の募金活動が始まった。


まず、近くの村のオケに連絡をとり、募金箱の設置をお願いした。
日本人からのメッセージがほしいということで、軽くスピーチしてきた。
200人近くの聴衆の目の前で、英語でスピーチ。
手と声が、恐ろしく震えていたことは、まあ、言うまでもない・・・・・。
しかし、それを見た村に住むおじい様・おばあ様が、涙ぐみ、頷きながら私の話を聞いてくれた。
私の勝手な予想だが、声が震えていた為に、私が泣いていると思ったのではないだろうか。
ドモリすぎた私は、何度も「I still can't believe...」と言っていたのだから・・・!!

突然のお願いだったにも関わらず、募金箱は溢れんばかりのユーロ札でいっぱいになった。
コンサート終了までに集計し、募金総額を発表するということで、
オケの裏方さんが、一生懸命数えてくださった。
そしてコンサート終了後、一つの封筒に入れて、封をして渡してくださった。
家に帰って、封筒の中身を見てみると・・・・・
きっとたくさんあったであろう小銭を、送金しやすいよう、全てお札に換えてくれていた。
そこでも、オランダの方々の“心意気”を感じた。



そして、いよいよConservatorium Maastrichtの日本人学生主催のコンサート。
ロビーには、募金箱のほか、メッセージブック・地震関係の読み物・写真を用意。
演奏中は、背景で日本の風景写真を流し続けた。
『春の海』に始まり、『アシタカとサン』に終わる、素敵なコンサートだった。
【生きろ】というキャッチコピーで知られる 映画 もののけ姫の代表曲、『アシタカとサン』。
曲・歌詞・演奏・映像、その全てから生まれたパワーは、とてつもなく大きかった。
そこにいた人全てが、心打たれ、演奏後は大きな拍手で会場全体が包まれていた。

企画した日本人全員が、達成感と喜びと幸福感に満ち溢れているのが、見て取れた。
いい日だった。







私たちは、まだ日本に帰れない。
だからこそ、ここでできる限りのことをしたい。
ここにいるからこそ、できることを。


地震発生から、一ヶ月以上が過ぎた。
まだ行方不明の方々が、大勢いる。毎日のように余震も続いている。
食べ物・飲み物・薬・暖房器具・衣服・トイレ・仮設住宅を待つ日々。
津波で流された家・地震で壊れてしまった家。
廃棄物処理の方法。費用の問題。
不安な毎日の中、必死に生きている被災者の方々。
考えただけで、胸が締め付けられる。


私たちが集めた募金は、全体から見たら、わずかなものでしかない。
それでも、刻んだ一歩は大きくて、
今回の企画を通して結ばれたつながりは、忘れられないものになった。
「日本は一人じゃない」「世界はつながっている」今では強くそう思う。





信じて 共に生きること
そして 生まれる強さ

見上げて 遠く離れても
心をひとつに結ぶ愛 希望のそら









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きゅ〜じつ。

2010.11.07 Sunday 13:05
とある休日。
同僚の先生のお宅へ、お邪魔した私。

ドアを開けてすぐ、衝撃が全身を貫きました。

いぬ・・・・・
犬・・・・・・
イヌ・・・・・
しかもゴールデンレトリーバー・・・・・


WOW!



何を隠そう、わたくし、幼少時代の苦い経験から、犬に触れない年月を送っておりました。


                              


あれはまだ、私が世の中の酸いも甘いも知らず、
お山の中でハイジの如くのんびりと暮らしていた、小学校2年生の時のできごとです。
私には、3つ離れた兄がいます。
言っておきますが、私と兄は、100歩譲らなくても、誰がどう見ても、仲良しです!
その兄は、今でこそ都会に暮らし、若干かっこつけてる感はあるにしても、
周りのことを考え、協調性が増してきた、「OTONA」になりました。
が、しかし。
かれこれ15年前……彼は、単なるいたずらっ子でした。いたずらっ子、世に憚るです。


そんな兄のクラスメイトの女の子が、近所に住んでいました。
その子は犬を飼っていました。
名前は、チビ。
ん?チョロだったかな。
チロ・・・・・だったような気もします。
とにかく、「チ」がつく犬です。



お山に暮らす私にとって、野生の猿・熊・カモシカは、多少ドキドキするものの、
さほど珍しいものではありませんでした。
しかし、犬となると話は別です。
野生の犬など、お山にはあまりいません。
捨て犬など、もってのほかです。
お山には、そんな人間いません!涙
ですから、兄のクラスメイトが飼っている犬が、珍しかったのです・・・・・・。



夕方、学校からの帰り道、その犬に会うのが楽しみでした。
しかし、やはり一人では触れないため、いつも遠くから見ているだけでした。
健気な女の子でしたね。

しかし、いつしかそのチビだか、チロだか、チョロだかが、
私に対して、敵意をむき出しにし始めました。
何の心当たりもありませんでしたが、とにかく吠えまくられました。
しかし何と言っても、遠くから見ているだけ。
特に何の問題もありませんでした。


そんなある日。
兄のクラスメイトが、なんと!
こともあろうに、リードを外したまま、その犬を外に出したのです。
何も知らない私は、いつもの帰宅ルートを、マヌケな顔して歩いていました。
すると・・・・・・


ワンワンワンワン


えっ・・・・・?


振り向くと、
猛ダッシュでチョロ(もはやチョロで決定。)が追いかけてくるではありませんか!
事態を把握しきれるような、優秀な脳みそがなかったためか、
私の筋肉は運動を停止し、その場に硬直してしまいました。
そして、気づけば、その日来ていた上着の右手首の部分が破れていたのです・・・・・涙



あとで分かったことですが。
いたずらっ子の兄は、チョロに毎日、石を投げていたそうです。
そして、怒りを日々募らせていったチョロ。
その怒りの矛先は、私に向けられたのです。
兄と同じ家に住んでいて、同じ匂いのする、妹に・・・・・・・・・!!


それ以来、犬には触れなくなりました。
何度も言いますが、私と兄は、100歩譲らなくても、誰がどう見ても、仲良しです!
「おにーちゃん」と呼んだことはありませんが。
兄というより、むしろ、よき友です。



                            


さて。とある休日の話です。
同僚の先生のお宅で発見した、1歳にも満たないゴールデンレトリーバー。
激しくジャンプし、飛びついてくる、元気な犬。
しかし、先生に気を遣わせてはいけない。
そう思った私は、先生がお子さんとお話をされている15分間、
犬と打ち解けようと、必死にがんばりました。


15分の格闘の末、私とケンジは、よき友になりました。



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‐信‐

2010.02.01 Monday 13:48
 
ひとを「信」じるって、なんでしょーね。


    ― 信 ―


私のだいすきなコトバ。
だけど、解くのに一生かかってしまうくらい・・・
むしろ、一生かかっても解けないかもしれないくらい難問で、
つかめないコトバだな、って思う今日このごろ。
昔は、ただ正直に何も考えずに “好きなコトバ!”って言ってたのにね。



運命のインハイ予選、前日。
初心者軍団のうちらは、全国制覇にむかって、
ただひたすら毎日ピストの上に立っていた。
そんな8人の仲間。濃い毎日だったねー。

― 「信」ってね、9画なんだよ、知ってた?―

この一言にピンッ!と来た私は、
3年間苦楽を共にしてきたグローブの内側に、
でっかく でっかく 「信」の文字を書いた。
8人の仲間に1画ずつ書いてもらって。。。




私がこの世で最も尊敬している人、父ちゃん。
父ちゃんの名前にも、「信」の字が入っている。
家族のシンボルのような、この一文字。
家族の結束が必要だった、2004年。
それぞれがそれぞれ、自分の分野で、
果たすべきことに熱中していた。
ばあちゃんの「信頼」を裏切っちゃなんねー!
そんな想いに包まれた、6年前の春・夏。

だからこそ、インハイ予選前日、私はこの一文字を選んだ。




あれから、妙に「信」という字にくいつくようになった。
「信」じるって、なんでしょーね。
昨日、ちょびっとだけ新しい考えが生まれた。



本気で「信」じているのなら・・・
声に出して、ハッキリと言わないんじゃないかな。
    ″ シンジテルヨ ″ なんて・・・
本気で「信」じているからこそ、言わないんじゃないかな。
友達・知り合い・友達の友達・彼氏・彼女・好きなヒト・・・・・・
世の中、いろんなつながりがあるけれども。
「信」じるってゆーのは、
コトバでは言い表せられない、抽象的な概念であって。
それをあえてコトバにしてしまったら・・・
なんだか薄っぺらいモノに聞こえてしまうし、
まるで自分に無理やり言い聞かせているかのよーにも聞こえる。



自分の心ん中にある、「信」っていう塊は、
音にした瞬間に、ボロボロ崩れていってしまうような気がしてなりません。



自分の気持ちは、自分の心が一番よ〜く理解しているんでしょーね。
「何を信じればいいのか」とかそんなコトは、
頭で考え始めるから、言い聞かせるようになってしまうのであって。
自分の心の声に、正直に素直に耳を傾けることが大切なんだ・・・
と、ゆうべ私は気づきました。


ヒトを信じることは大切だけれども。
信じられるよーに、自分を仕向けることは、大きな間違いだ、と。

「信」っていう一文字は、
いつの間にか自分の心の中で、勝手に9画書かれていくもの。

急いで書き足しちゃ、いけません。




「信じることができて、よかった・・・」
最期の最期、ふか〜い眠りにつく前に、それまでの人生をふりかえって、
そんなコトが言える友情に出逢えていたら、私はしあわせです。
だからこそ、今までの出逢いを大切にせねば!


父の教え その壱:ひととのつながりを、たいせつに・・・
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